復曲プロジェクト

復曲プロジェクト

《室咲京人形》と《水仙丹前》

 《水仙丹前》は舞踊会でよく上演され、長唄だけでなく荻江節でも演奏される曲です。この《水仙丹前》は、宝暦5年(1755)9月、京下りの若女形、初代中村粂太郎(1724~77)が7年ぶりに京に帰る前、江戸市村座でお名残に「江戸みやげ」として踊った《門出京人形》の第一曲《丹前》と第二曲《鎗踊》を一曲にまとめたものです。《門出京人形》のタテ唄は松嶋庄五郎、タテ三味線は杵屋新右衛門が勤めました。
 ただし、粂太郎は七年前の寛延元年(1748)11月、江戸中村座でも「京みやげ」として同様の所作を勤めています。そして、その内容は翌年正月に刊行された役者評判記『役者大雛形』で知ることができますが、具体的な情報や歌詞の入った長唄正本は確認されていませんでした。ところが昨年、その時の正本《室咲京人形》がフランス国立図書館に所蔵されていることがわかり、加納マリ氏(武蔵野音楽大学)と那須聡子氏(音楽文献目録委員会事務局)の御尽力によって写真を入手することができました。その結果、《室咲京人形》のタテ唄は《京鹿子娘道成寺》室咲京人形でもタテ唄を勤めた初世吉住小三郎、タテ三味線は七世杵屋喜三郎であると判明しました。
 この《室咲京人形》と《門出京人形》を比べると、歌詞はほとんど同じですが、《室咲京人形》は《丹前》《鎗踊》《道行》《猩々》の四つに、《門出京人形》は《丹前》《鎗踊》《道行》《笠の段》《猩々》の五つに分けて踊られたようです。
 歌詞には、たとえば次のような違いがあります。
 まず、同じ《道行》でも、《室咲京人形》の〽あれ御覧ぜよ東路に」〽花の都を立ち出でて」が、《門出京人形》では〽あれ御覧ぜよ都路へ」〽花の東を立ち出でて」と書き換えられ、「京みやげ」と「江戸みやげ」の違いが反映されています。
 また、最後の《猩々》は能〈猩々〉の詞章を大幅に取り入れているものの、引用する部分が少し異なり、演出面にも違いがあります。《室咲京人形》では粂太郎が〽声澄み渡る浦風の秋の調べや残るらん」を謡でうたい、その後に能の「乱れ」が入りますが、《門出京人形》では別の詞章を謡専門の演奏家(安宅幸七・中山藤右衛門)が謡っているのです。謡を演奏家が担当するようになったのは、粂太郎の声が小さく聞こえづらかったためかもしれませんが、当時の十八世紀中頃の江戸歌舞伎には謡を専門とする演奏者が存在していました。
 このように、《室咲京人形》と《門出京人形》には相違点もありますが、同じ粂太郎が踊ったのですから、音楽がほぼ同じであったことは十分に考えられます。そこで今回、《室咲京人形》のうち《丹前》と《鎗踊》については、現行の《水仙丹前》を演奏することにしました。
 ただし、そのままではありません。現在の《水仙丹前》は、《丹前》の〽忘るる暇もないわいな」と〽恋は様々」以下恋尽くしの歌詞の間に、《鎗踊》〽振れ振れ振り込めさ~花は九重」を挟んだ形になっています。そこで、いつこの形になったのかを確認したところ、冨士屋小十郎板の再版本以降、現在の歌詞に定着していることがわかりました。また、冨士屋小十郎の活動期間は、吉野雪子氏(国立音楽大学)の御教示により、天明四年(一七八〇)十一月以降であることが明らかとなりました。従って、現在の形はかなり古くから行われていたことになりますが、今回は初演の形に戻し、《丹前》と《鎗踊》をそれぞれ独立させて演奏します。
 また、《室咲京人形》の《道行》は、《門出京人形》では《道行》と《笠の段》の二つに分かれています。今回はそれぞれを別に扱いながらも、曲は一続きとなるようにしました。
 なお、《室咲京人形》の正本には《門出京人形》のように三味線の「合」や「合の手」の記載がなく、復曲の手がかりが少ないという難点があります。また、《室咲京人形》の作曲者は《傾城道成寺》などを作曲した七世杵屋喜三郎と考えられますが、前出『役者大雛形』によれば、粂太郎は江戸に下る前、京の暇乞いでも同様の曲(《鎗踊》を除く)を踊っているので、上方の演奏者が作曲したことも十分に考えられます。つまり、復曲に欠かせない作曲者の特定が難しいことになるのです。
 しかし、《水仙丹前》は今日まで伝承されてきました。そこで、今回はこの現行曲を大きな拠り所として復曲します。三味線の調子も、正本に記載はありませんが、《水仙丹前》が二上りであることから、全体を二上りで復曲いたします。

配川 美加
(2019年2月「第5回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)

《室咲京人形》正本表紙( 寛延元年11 月 江戸中村座 『女文字平家け物語』)
  フランス国立図書館蔵 Dd3261 那須聡子氏撮影

「室咲京人形」復曲チームより 

 このたびの「室咲京人形」には、「水仙丹前」として伝わっている曲が含まれております。
 現行の「水仙丹前」は、一曲として演奏されていますが、「室咲〜」の正本を見ますと、「丹前」と「鎗踊」の二曲として演奏されており、また曲のそれぞれの部分のつながり方(順序)も違っております(歌詞参照)。また、歌詞自体にも多少の異動がありますので、どのように演奏するか、検討する必要がございました。
 主に議論の対象となった点と、現段階での結論を記します。

①正本の歌詞と現行の歌詞の違いをどうするか
 現在伝わっているものと正本のものと、どちらかを取るか、あるいはなんらかのすり合わせをするか、という三択になりましょうが、結論から言いますと、今藤綾子師より伝わる現行流布している歌詞で演奏することにいたしました。
 その理由は以下の通りです。
  1.曲ができた当時、正本通りに演奏されたとも限らないので、双方の歌詞をすり合わせてみたい ところではある。しかしながら、いまある資料では考証の材料が少なすぎて現実的に不可能であること。
  2.正本通りとすることは、他の曲との整合性や、なるべく原曲に近づけるという基本的な方針から 考えれば、本来そうすべきだが、正本の歌詞と現行の歌詞との違いは、〈てにをは〉レベルではなく、 字数や単語数が違う部分もあり、現行の曲に正本の歌詞をはめるという作業だけではなく、三味線 の手自体をいじらなくてはならなくなる。
  先に述べた原曲に近づけるという原則をあらためて鑑みたとき、「正本と歌詞は違うが、三味線の手を伝承されたもの」と「歌詞は正本通りだが、我々が三味線の手を入れたもの」の二択となる  が、後者を選ぶほどの確信を持てないこと。多分に私どもの力不足もありますが、先人たちへの敬意と感謝もあり、上記の結論に至りました。

②「鎗踊」の最後の部分が、現行曲では曲の途中であるため、段切のカタチになっていないが、どうするか具体的には「花は九重」の箇所ですが、現行曲では曲の途中の段落の終止のカタチである、オトシの手で収まっております。しかし今回は「鎗踊」全体のおしまいに当たります。やはりこの場合は、曲全体の終止のカタチである段切にしようということになりました。現行曲の手を極力生かしながら段切で曲を納めております。

③現行曲のチラシの前の合方をどうするか
 現行の「水仙丹前」では、チラシの前にツナギの合方が入っております。この合方を、このたびのように正本の順序で演奏するとなると、「丹前」のチラシの前に入ることになるのですが、どうも曲調がそぐいません。
 というのも、我々の感覚ではこの合方は鎗踊の系統の曲に入るという認識があるからです。この類型の合方は、例えば「黒木売り」と「国入奴」の組曲としてなっている「大原女」の後半、すなわち鎗踊の系統たる「国入奴」の曲中にツナギとして使われています。
 もしこの合方が前半の「黒木売り」で使われれば違和感があるはずで、それと同じような意味で「丹前」の曲中でこの合方が使われると違和感が生じるのです。
 ここで推察されますのは、「丹前」と「鎗踊」という一応独立した二曲が、「水仙丹前」として一つの曲となり、チラシの部分がその全体の終曲となったときに、鎗踊系の曲のツナギとして後付けで挿入されたのではないか、ということです。
 議論の余地はありましょうが、このような推測に基づき、原曲にはこの合方がなかったと想定し、このたびは抜いて演奏することにいたしました。

以上、復曲チームとしましても迷った挙げ句の結論です。
ご意見など賜われましたら幸いでございます。

今藤 政貴
(2019年2月「第5回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)