復曲プロジェクト

復曲プロジェクト

剱烏帽子照葉盞 ( けんえぼしてりはのさかずき) 【作品解説】

 宝暦一〇(一七六〇)年一一月、市村座の顔見世狂言「梅紅葉伊達閈」 ( うめもみじだてのおおきど)第二番目に劇中劇の所作事として上演。綿帽子売りに身をやつした平惟茂が三番叟を踊る。三番叟の中に「この尉が おさえたおさえた」「ほかへはやらじと遣り水の」などと宝剣を争い、「草摺引」の趣向が入るのが特色。藤田(富士田)吉次・杵屋忠次郎両名の作といわれるも曲は現存しない。大正四年正月東京市村座で竹柴金作が一幕物に脚色、「大江戸根元/荒事歌舞伎」『劍ゑぼうし』(『演芸画報』大正四年正月号掲載)として復活。そのときは「たえずに来るのが誠の心~野暮らしい」を省いた詞章で上演されたが、こちらも曲は現存しない。

文責:金子泰
(2016年6月「第1回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)

復曲への期待

 今回今藤政太郎師が「釼烏帽子照葉盞」の復曲を試みられる事、誠に有意義な事で完成が楽しみです。この曲についての詳しい解説は他の方がなさると存じますので、復曲の事、選曲の事などに触れたいと存じます。
 この曲は大変流行した曲のようで薄物正本の種類が非常に多く、曲の人気の程を証明している気がします。歌詞を読むと三番叟のヤツシのようで、宝暦期の洒落の溢れた曲であったと思います。第一に余吾将軍と呼ばれた武勇すぐれた武将の平 維茂が綿帽子売橘屋彦宗という設定が面白く、(維茂は「紅葉狩」鬼女退治の芝居でご存知と思います)、歌詞も洒落があり例えば、〽おおさえおさえ」の三番叟の定型の歌詞を〽おさえたおさえたこの箱を外へはやらじ」と洒落ています。この曲が現在伝承されていないという事が不思議に存じます。町田佳聲先生と思いますが「今藤派の『釼烏帽子』と五三郎派の『布袋』が伝承されなかった事が大変残念だ」と言っておられました。この二曲とも昭和初年の会の番組にありますので、戦前位まで御存知の方がいらしたようです。政太郎師にご相談を受けた時この事を思い出し、この曲の復活を申し上げた次第です。師は多くの方に曲の伝承の事、残された資料の事をお聞きになられましたが、全く残っておらず、初演正本・評判記・残された記事など研究し復曲される事になりました。大変な難事であった事をお察しします。
 古譜かご長老の方の録音でもあれば非常に参考になるのですが皆無で、正本には仮名の指定があり、ハル・モツ・ギン・アタル・カンなどですが一番悩ませられたのは和歌山カカリです。各種の『音楽辞典』類に例として「釼烏帽子にあり」とあるだけなので困りました。当時の唄うたい和歌山五郎兵衛の節のようなので他の楽曲義太夫・古典類にその例がないかと随分調べたのですが不明でした。師は秋葉芳美先生の和歌山節についての極端に短い解説を参考しにして復曲されたようで、この成果も楽しみです。今藤派は代々古典の復活には伝承を最も大事にされ、それを基に新しい感覚で復曲される伝統があるので、後生にまで伝わる名曲が今回生ま れる事を期待しております。

稀音家 義丸
(2016年6月「第1回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)

『剱烏帽子』と市村亀蔵

 『剱烏帽子』は「三番叟物」である。『雛鶴三番叟』や『晒し三番叟』とともに、宝暦年間に書き下ろされた。江戸の古風な顔見世の所作事であった。
『晒し三番叟』を踊ったのは、瀬川吉次のちの二代目菊之丞十五歳。『雛鶴三番叟』も子役が踊った『三番叟』だったのであろう。
『剱烏帽子』の市村亀蔵のちの九代目羽左衛門は三十六歳、老境に達した父羽左衛門に代わって一座を支える、座付の座頭役者であった。
 顔見世狂言『梅紅葉伊達閈』は、八幡太郎義家の「奥州攻」の物語であった。安倍貞任が生きていて、江戸の物売りに身をやつして潜入。亀蔵の「綿帽子売り彦宗」もその本名は「余五平将軍惟茂」、能『紅葉狩』で鬼女を退治した平家の武将であった。時代の違う二人が出会う、自由な発想が江戸の持ち味であった。
 狂言作者は金井三笑三十歳、脇作者は桜田次助二十七歳。大名題の「梅紅葉」は秋の季語で、安倍宗任の和歌「わが国の梅の花」と『紅葉狩』を読み込む。「伊達の閈(大木戸)」も『奥の細道』で芭蕉が訪れた古戦場であった。その風流はのちに「奥州責に我国の梅に紅葉狩取組」と評価された(『役者全書』)。
 亀蔵の本役は親譲りの「立髪」「丹前」。「濡れ事」「所作」も親譲りであった。常磐津の所作事を完成したのも、この親子。長唄『二人椀久』など拍子事も家の芸であった。亀蔵の代表作は、常磐津『蜘蛛の糸』長唄『吉原雀』『安宅松』。
 亀蔵のもうひとつの看板は「荒事」であった。二代目團十郎の海老蔵から『矢の根』『助六』を譲り受けた。二年前には女形の中村富十郎と二年後には父羽左衛門と『草摺引』を踊った。『草摺引』も市川流の荒事で、『剱烏帽子』にも取り込まれたのである。
 力比べの相手は、金貸しに身をやつした鳥の海弥三郎。金沢の柵で鎌倉権五郎の右目を射抜いた弓の名手。赤っ面の荒若衆と荒若衆の力比べは「二人三番叟」の見立てになっていたのである。

東京大学教授 古井戸 秀夫
(2016年6月「第1回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)

長唄正本の文字譜・胡麻点

 本曲の初演正本には、歌詞の他に文字譜・胡麻点など音楽情報の記載があり、復曲の手がかりが残されています。
 まず、文字譜には「下」(〽いろが)、「キン」(〽きくの)、「クル」(〽しもにも)、「カン」(〽ふゆの花)など音の高さに関わるものが出てきます。
 このうち「クル」については、矢向正人氏が論文「長唄正本の注記の研究―現行譜と照合してその意味をさぐる―」(『デアルテ』平成十七年)で、「特定の音高を示していたとは考えにくい」が、「唄と三味線の音高や音域の上行に関する注記」と結論づけています。
 また、明治十年に三世杵屋勘五郎が作った『大倭三絃甲乙図』によると、「キン(ギン)」は各糸の開放弦から長二度上、「カン」は三の糸の開放弦から完全五度上あたりの勘所を指すようです。ただし、「ギン」や「カン」についての考え方は人によって違いがあり、『大倭三絃甲乙図』ばかりを信用するわけにもいきません。
 そこで、「下」も加えて、同じ文字譜が正本に記載された現行曲で音の高さを調べてみました。
 その結果、「下」は一の糸の開放弦の音「7・」のことがあり、「カン」は『大倭三絃甲乙図』の通り、三下りでは「3・」の場合が見られました。しかし、「カン」はそれより高い音を使うことも多いようです。「キン」についても『大倭三絃甲乙図』の通り、三下りでは「4# 」や「7」の場合が見られますが、「5」「7♭ 」などそれ以外の音も出てきます。
 このように、音高を示すと考えられる文字譜には曖昧な点があり、「和哥山カヽリ」など他の文字譜にも不明なものが多いのです。なお、矢向氏の前掲論文では本曲にも出てくる「モツ」(〽ふこころ、〽しもにも)を「唄の旋律に休止部分を入れて間を持たせて唄い出す手法」、「トメ」(〽うたい~)は「終止に用いられる旋律型を示す」としています。
 次に胡麻点は、やはり矢向氏が分類・解明を試みていますが、正本によって書き方に違いがあり、統一性が見いだせないという問題があるようです。本曲では、前半に所々使うという限られた使い方になっています。
 以上のように、文字譜・胡麻点の研究はまだこれからという状況ですが、復曲者の方々は今回調べた結果も考慮に入れて、様々に工夫を凝らして曲を完成させてくださいました。
 今後は、一中節・河東節・常磐津節など他種目の正本の文字譜・胡麻点なども視野に入れて、復曲の手がかりに結びつくような情報を少しでも増やしていきたいと思っています。

東京藝術大学非常勤講師(隔年) 配川 美加
(2016年6月「第1回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)

「剱烏帽子照葉盞」によせて

 この度は第一回作品演奏会おめでとう御座います。
 「剱烏帽子照葉盞」の作調を、という事でお声をかけて頂き、大変光栄に思っております。作調というよりは附けをした、と言う方が正しいのかもしれません。囃子はアシライだ、と仰る方がいますが、囃子を意識している曲や囃子無しではできないような曲も多々ございます。この曲に関しては「五つ頭、アバレ、岩戸」というような荒事や強さを表す時に使う部分の手を入れるという事で、「太鼓地」の部分で使うのか、それとも「三番叟」の部分で使うのか、幾度も試行錯誤しているうちに今の形となりました。また、三番叟物という事で、揉み出しこそ打ちませんが、揉みの段の手や竹田も入れております。鈴の部分は途中から「サラシ」を入れて、従来の楽曲に馴染みのある形といたしました。
 笛が二人いらっしゃるという事で、交互に演奏する部分、同時に演奏する部分を織り交ぜております。「烏飛び」の所を「鶯飛び」に、という難題もありましたが、推峰さんのお知恵を拝借し、解決の運びとなりました。
 今回、本曲に携わることで先生方から大変興味深いお話を伺う事が出来、貴重なお勉強をさせて頂くことができました。政太郎先生にはますますご健康でいらして頂き、これからも数多くのお話を伺いたく存じます。
 本日は誠に、おめでとう御座いました。

田中 佐幸
(2016年6月「第1回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)

「復曲にあたり」

 この度は、かねてから一方ならぬ興味を持っておりました宝暦頃の長唄に深く入り込む機会を与えていただき、とても嬉しく思います。
 この時代、長唄に楽譜は存在せず、残された具体的な資料は正本一式のみです。正本の歌詞に添えられた「文字譜」とその時の評判記等が曲を組み立てる頼りとなりました。
 今回の「剱烏帽子」には、歌詞の冒頭に「和歌山カカリ」という指示がありました。これは他には例が無く、和歌山とはおそらく人物名であるとしてお調べいただいたところ、それに該当するであろう数人が浮かび上がり、その中の、「若山節」(若山は和歌山とも書く)と呼ばれ好評を博していた「若山五郎兵衛」に特定することにしました。しかしながら音曲的な資料は無く、この人物の芸歴からして江戸浄瑠璃風ではないかと推測し、試作を重ね思案の末に、現在にも残る河東節等の江戸浄瑠璃の旋律やリズムを、本曲の前半部分にやや取り入れることにしました。
 長唄としていかにというところですが、他に例が無いこと、長唄が浄瑠璃の影響を受け始めていた時代でもあることから思い切った試みをしました。どうかご容赦の上お聴きください。

松永 忠一郎
(2016年6月「第1回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)

このたびの復曲について

 復曲は普通の作曲とは違い、自分の感性で作るわけにはいきません。その曲が元々作られた時代や作曲者の作風を考えて、それらしいものにすることがまず必要です。一方、演奏会にかける以上は鑑賞にたえる曲に仕上げることも重要で、ここに復曲の難しさがあるのではないかと思います。
 私の担当は後半のごく一部分ですが、プロジェクトチームの錚々たる面々のご教示やディスカッションの結果、この部分は太鼓地にして、古い曲によくある返し唄のかたちで作ることとなりました。(ただし正本に歌詞の繰り返しはなく、この点やや強引ではあります)
 さて『剱烏帽子~』は藤田(富士田)吉次と杵屋忠次郎の合作といわれ、その二年後には同じコンビで『うしろ面』や有名な『鷺娘』などが作られています。
また『剱烏帽子~』以前に忠次郎が作曲に加わったとされるものとしては『晒三番叟』『乱菊枕慈童』などが現存します。
 これらの作風や、作曲時期(作曲された順序)も意識しつつ、曲後半の太鼓地ということを考慮して、少しハデめに作ってみました。
 お客さまに楽しんでいただける仕上りとなっていれば、幸いです。

今藤 政貴
(2016年6月「第1回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)

八十の手習い

 若い頃、歌詞のみ残り曲は伝わらなくなった曲ってどんなかなあ、いつか復元したいものだなあと考えていました。良い演奏のためには、また良い創作のためには、偉大な様式にひれ伏し対峙するためには、復元を含めた古典の勉強が必要と考えました。そんな話を稀音家義丸氏にいつも話しておりました。
 それから六十年、自分の演奏力に異変を感じ、これは舞台を退かねばお客様にも周囲にも申し訳ないと思うようになり、舞台からの引退を決断しました。その決断と同時に、自分のかねてからの思いを実現しようと思いました。ふつう舞台からの引退は演奏家にとって断腸の思いなのでしょうが、復元曲その他のことを考えると、古典への憧憬、ミステリーを読み解くような楽しみ等がこもごも思い浮かび、むしろ楽しみに変わって参りました。その事を織田紘二氏にお話ししたところ全面的に賛意を表して下さり、さっそくプロジェクトチームを立ち上げようと言って下さり、二日後には古井戸秀夫氏、配川美加氏それに稀音家義丸氏をブレーン(「ホワイトカラーズ」)に集めていただきました。また復元の作業に賛意を表してくれた田中佐幸氏、松永忠一郎氏、今藤政貴氏を加えた四名を作業チーム(「ブルーワーカーズ」)と名付け、東大の古井戸研究室での会合が始まりました。それから色々の復元候補作を検討し、今日演奏される「剱烏帽子」を取り上げることとなりました。
 さて復元の方法ですが、お芝居の年表、正本と呼ばれる資料、作曲者の作風の解析、正本に記された文字譜と呼ばれる記号のようなものを参考にしつつ「ブルーワーカーズ」はいろいろに話し合い、やっと復元らしきものが出来上がりました。なにしろ僕は八十歳、僕より年長者は義丸氏だけ。自分より若い方にいろいろな事を教わり頭の中のコンクリートを壊してもらうのは、ちょっと辛い反面楽しい事の方が圧倒的に多く、若い人に教わる楽しさを存分に味わいました。忠一郎氏・政貴氏と僕とで分担を決め、それぞれに宝暦の頃に立ち返り杵屋忠次郎になるのは大変なことでした。でも夫々懸命に考えつつ楽しみつつ、だんだんに形になってきました。
 僕の分担は三番地(さんばじ)、鈴の段、チラシ。なかなか昔の形にするのが難しく、考えあぐねました。三番地の冒頭はお決まりのチョンチョンスッチョンチョンのリズムなのですが、直前にでてくる「鶯」という歌詞についてホーホーホーホケキョという三味線の手をつけ三番地に仕立て上げました。が、そんな工夫があってよいのかどうか?やはり作曲家の性、アイディア優先になりました。そして最後のチラシ、この曲の一つの柱が宝物争いに基づいていることなのだそうで、荒事風にしてみたのですが、三番叟物ということを考えるとやはり、チチチレチチチレ※1とする方が時代に相応しいと思い直し、それを採りました。それから段切れは「外記(げき)ドメ」という手を使いました。異論もあって迷ったのですが、収まりのよい外記ドメを採用しました。
 復元の結果は皆々様の御批評を待つばかりですが、ともあれ僕の遊びごころのような試みにこんなに沢山の優れた研究家や作曲家が凄く面白がって、皆「同人」という言葉で結ばれ良いプロジェクトができたと、ただただ感動です。

   なおこのプロジェクトには、のちに協力者として今藤政音、内川美緒、金子 泰の三氏が加わりました。

今藤 政太郎
(2016年6月「第1回今藤政太郎作品演奏会」プログラムより転載)