六回目になる復曲プロジェクトは会場を初めての紫山会館に替えて行われ
ました。それまでの五回は、紀尾井ホールや国立劇場小劇場でしたが、今回
はコロナ禍ということもありますが、常日頃(初期の頃は、東大の古井戸研
究室、近年は国立劇場の会議室)行っている研究会の様子を再現しょうとい
うこともあって小空間で小人数での開催になりました。
過去五回の演奏会では概ね歌舞伎上演に際して印刷出版された正本を元
に、初演の折の内容や配役、長唄の作曲者や演奏家、正本表紙に描かれた絵
などを参考に研究し作曲にかかり、一応できた曲を聞いて鳴物の作調も考慮
して一曲を仕上げるというプロセスを経て発表という段取りになります。こ
の間三ヵ月から半年の時間を要します。
今回は初めて「めりやす」を取り上げました。歌舞伎でも舞踊でも大切に
されてきた演出効果としての音楽表現ですが、宝暦三年の『花の縁』と同じ
く十二年の『松むし』の二曲を新規に復曲し演奏しました。
これを第一部「めりやす二題」とし、第二部は特別企画として『三日転愛
哀死々』を紹介しました。昨年8月30日のNHKBS1で放送された「江戸の智恵に学べ―コロナ時代を生きるすべ」という番組ですでに紹介されて
いましたが、ごく短い時間でした。これを発見紹介されたのは奈良女子大学
の鈴木則子先生でした。鈴木先生から今藤政太郎師に作曲の依頼がありまし
たが、番組の中では短い紹介で終わりました。
時まさに世界は新型コロナに席巻され、日本も余所事ではありませんが、
安政五年(1858)に猛威を振るったコレラ大流行の折の江戸の庶民がど
のようにコレラと対峙したかが窺える長唄正本風戯作が残されていたので
す。この作品を紹介するには今が好適との政太郎師のご判断で第二部の特別
企画が実現しました。今藤政太郎作曲、松永忠一郎ツナギ合方作曲、田中佐
幸作調、演奏は唄=今藤政貴、杵屋佐喜。三味線=松永忠一郎、松永忠三郎。
囃子=田中佐幸他という復活プロジェクトの同人が主に勤めました。演奏の
前に織田が政太郎師、当日急きょ上京された鈴木則子先生と、この公演をご
紹介下さった朝日新聞東京本社文化くらし報道部の栗田優美記者にも参加し
ていただき曲の紹介と公演に至る経緯についてインタビューしました。
この作品はとも角洒落た内容で当時なら誰でもが知っていたであろう歌舞
伎や他の長唄のパロディで横溢しています。「長唄」が「鼻唄」になってい
たり「道行」が「志に行」になっていたり演奏家の唄方の名前が「穴掘溜太
郎・医寺坊三」とか三味線方が「跡野妻子・折レ口五九郎」とか、作者が「志
祢屋徳三郎」という凝り方です。
政太郎師の作曲もパロディいっぱいの洒落たものでした。どこかで聞いた
ことのある曲想が随所にあって楽しめました。まさに本作に相応しい作曲の
妙技で、政太郎師の面目躍如という作に仕上がりました。
当時コロナによる死者が府内だけでも16万8700余人(そう戯作に記
載されている)を数えたようですが、何とも大らかに現状を笑い飛ばしたも
のでした。どうしょうもないものはやっぱりどうしょうもない、という諦め
と自己防衛。そんな中での笑いとパロディでパンデミックに立ち向かった江
戸庶民が愛おしくなるような、そして日本と日本人としての今の自分を振り
返って見るような機会でした。
織田 紘二
(2020年12月「今藤政太郎 復曲プロジェクト〈6〉」プログラムより転載)
はじめに
これまでの復曲プロジェクトの五曲は、すべて「所作事」であった。今回、
はじめて「めりやす」二曲を取り上げる。
「めりやす」は宝暦明和安永天明に流行。天明五年に刊行された黄表紙『江戸生艶気樺焼』で山東京伝は「まず、めりやすという奴が浮気にする奴さ」
として「雉子」「無間」など、めりやすの流行曲六十八曲を並べ上げた。「浮
気」とは色恋で浮き名を上げる事、めりやすはそのような浮気に憧れる道楽
息子たちが吉原など遊興の場で歌うためにまず覚えなければならない必須の
アイテムだったのである。
江戸のめりやすの名手、湖出市十郎が上坂したのは、安永天明であった。「柳
髪」「蚊遣り火」など独吟のめりやすを歌い、江戸長唄を紹介した。同じ頃、
鈴木万里も大坂に上り、そのまま坂地に残り、やがて「長唄の親玉」と称せ
られるようになるのである。湖出市十郎の初上りから二十五年後、文化元年
(1804)には「江戸長唄 大坂にて流行出し素人の好士、稽古して諷ふ」
(『摂陽奇観』)ようになった。「その群れをチリカラ連と呼ぶ」として「五大
力」を筆頭に二十三の曲名が挙げられた。
「五大力」は、もと京坂の座敷で歌われた上方歌であった。大坂で並木五
瓶が自作『五大力恋緘』に取り込んだときの三味線の調子は「二上り」であっ
た。江戸の再演で「三下り」に転調、その歌が逆輸入されて坂地での流行を
見たのである。大坂の「素人の好士」は、江戸の「チリカラ」と囃す華やか
な囃子とともに、しっとりとした「三下り」の曲調にも魅せられたのである。
「錦木」と「黒髪」
「錦木」は、安永二年(1773)11月中村座の顔見世狂言『御摂勧進帳』
の二番目に書き下ろされた。この曲が台本の形で残る、もっとも古いめりや
すである。義経を恋い慕う余り、嫉妬して戒めの縄に縛られた忍の前。めり
やすを聞くうちに思いが募り、「(道成寺の)真名古の庄司の娘にも、やわか
劣らん」と嫉妬に狂って殺される、薄倖の娘であった。めりやすの曲は二段
からなる。一の句がおわると三味線の合の手になり、義経を慕うせりふのの
ち忍の前が泣き出す、これが二の句のきっかけになる。また三味線の合方に
なるのであろう、雪が次第に降り積もるのを見ながら、「苦しきこなし、い
ろいろあるべし」となる。めりやすの歌詞は、一の句の〽我は君ゆえ泣き明
かす」、二の句の〽我が身の縁、薄もみじ」と、忍の前の真情を切々と訴え
るものであった。三下りで歌われる曲調は胸に染み入る、しんみりとしたも
のなのであろう。めりやすの曲の果てに、思い切った行動に移り、殺される
のである。
「黒髪」の初演は天明四年(1784)11月中村座の顔見世狂言『大商
蛭子島』の二番目。このめりやすでも、一の句で髪を梳く内に嫉妬の念が募
り、酒でも呑んで憂さを晴らそうというせりふのあと、二の句で酒の燗を付
け茶碗で呑む。酒を呑んで却って思いが増したのであろう、二の句が切れる
と茶碗を打ち砕くのである。
「黒髪」は曲とともに台本も伝えられていたので、昭和三十七年に歌舞伎
座で復活された。そうでないと、めりやすは復曲は可能でも、狂言を復活す
ることはできない。その替わり曲が伝えられれば、初演の狂言にかかわらず
他の作品にも応用することができるのである。そこに所作事とは異なる、め
りやす復曲の面白みがあるのであろう。
「花の縁」
宝暦三年(1753)、中村富十郎の「花の縁」の横笛という娘が殺され
て亡霊となり、『京鹿子娘道成寺』の白拍子になる。その原型は、享保16
年1731)瀬川菊之丞の「無間の鐘」の傾城葛城で、この葛城も殺されて
亡霊となり、白拍子の姿になって『傾城道成寺』を踊るのである。「無間の鐘」
で傾城が嘆くのは、廓に閉じ込められた籠の鳥の悲しさであった。好きな人
に逢えない辛さ、逢っても別れがくる事がもっと辛い。その別れを告げる鐘
の音に、〽逢わぬ辛さにな(引)、焦がれしよりも、逢うて別るる鐘の声(引)、
別れて逢うて、逢うて別るる鐘の声(引)」と嘆く。菊之丞とともに京から下っ
てきた坂田兵四郎が語尾を引いて歌う「ぬめり」という曲調は、のちにめり
やすの嚆矢とされることになった。
「花の縁」とは、花のように美しい良縁のことをいう。恋する人に出逢え
たこと、それが「花の縁」であった。「花の縁」には、花(桜)のように儚
く散る運命が待っているのである。そこには傾城とは違う、初心な娘の一途
な恋の思いがあった。一の句では、〽結ぶの神の仲立ちさん、頼みやんす、
拝みやんす」と祈り、二の句でも「筆と墨とに涙を添えて」と積もる思いを
掻き口説くのであった。
「松むし」
宝暦十二年(1762)7月市村座の『花燕都秩父順礼』の二番目に書き
下ろされた「松むし」は、夫婦とおさない男の子のめりやすである。夫の名
は飛脚屋忠兵衛、妻はお梅。「梅川忠兵衛」のやつしであった。めりやすの
後は、竹本浄るりの心中『道行野分堤別鶏』になる。浄るりの文句の「四
ツ門」は吉原のことで、名題に謳われた「堤」も日本堤なのであろう、隅田
川沿いを駒留橋から嬉しの森、庵崎と浅草寺の鐘の音を聞きながら辿り行く
死出の旅であった。父の敵が夫だと聞かされて、〽親の敵は誰じゃとも、知
らねば知らぬで済む事を、なぜ名乗っては下さんした」と、女房が嘆けば夫も、
〽親の敵は我なりと、疾くにも名乗って討たるる筈、我が子に心ひかされて、
今日まで隠した面目なさ、未練、未練」と詫びるのであった。めりやすの「松
むし」はその前段だったのである。
〽萩荻の露を命に松むしの」と、秋の夜半に松虫の鳴く音を聞きながら、
〽広き浮世を義理という、嘘もまことに言いかねて、仰せを否に行く舟の、
心底ずくじゃないかいな」と嘆くのが、めりやすの一の句。碪を打つ音を聞
きながら、転た寝をする我が子の笑顔を見て、〽包む縁もひと筋に、解けぬ
心を小夜碪、打つと打たれて」と謳われるのが二の句である。夫婦は幼児を
人に託して、心中へ赴くのである。
ほんらいの「梅川忠兵衛」と異なるのは、お梅の父が左大臣藤原の政信(正
しくは源雅信)という公卿であった。夫婦が我が子を託したのも、源頼光の
四天王卜部の季武だったのである。このような作劇法を京坂の人々は「江戸
の頓作の一流」(『古今役者大全』)と称した。「一流」は一流二流の事ではな
く、その人だけの特有の一流をいうのである。
江戸の飛脚屋の話でも、〽恋すちょう」とか、〽仰せを否に行く舟」と雅
語がちりばめられたのも、そのような「江戸の頓作の一流」の結果だったの
である。
古井戸 秀夫
(2020年12月「今藤政太郎 復曲プロジェクト〈6〉」プログラムより転載)
1「めりやす」について
「めりやす」は、歌舞伎以外の音楽にも使う用語だが、今回復曲で取り上
げる「めりやす」は二曲とも歌舞伎で初演された曲なので、ここでは歌舞伎
の「めりやす」について概観してみたい。
「めりやす」は長唄の曲種の一つとして、歌舞伎の陰囃子(黒御簾音楽)で、
書置・述懐・愁嘆・髪梳・色模様などの情緒的な短い場面に、唄・三味線の
独吟(二挺一枚)、または両吟(二挺二枚)で演奏される。例えば、現在の
歌舞伎では、『廓文章』の《ゆかりの月》、『芦屋道満大内鑑』「阿倍野奥座敷」
の《葛の葉》、『忠臣蔵』「七段目」の《小夜千鳥》、『東海道四谷怪談』「元の
浪宅」の《瑠璃の艶》、『妹背山婦女庭訓』「三笠山御殿」の《女気》や、『大
商蛭子島』で演奏された《黒髪》などが「めりやす」である。
語源には諸説あるが、江戸時代初期に輸入された伸縮自在の織物「莫大小」
とするのが通説になっている。実際、「めりやす」は、織物の「莫大小」の
ように、役者のセリフや動きに合わせて唄の長さや合の手の繰り返しを調節
して演奏する。ただし、こうした伸縮性は「めりやす」に限らず、歌舞伎音
楽全体に見られる特徴と言えるかもしれない。
「めりやす」の記載は、長唄正本の場合、宝暦七年(1757)二月市村
座の《花の香》が古い。しかし、歌舞伎の台本にはもっと古くから「めりやす」
が登場する。例えば、元文四年(1739)正月京富十郎座『けいせい嵐山』
の台本には「めりやす歌になる」「琴のめりやす」と書かれている。また、
寛保三年(1743)三月大坂中村座(大西)の『菊水由来染』には「字詰
の念仏 鐘入レて これをめりやすにして」、宝暦十二年(1762)七月大坂
中山文七座(角)の『竹箆太郎怪談記』には「お勤の木魚の音をめりやすに
する」などと記載されているので、唄や三味線の他にもいろいろな楽器や音
楽を「めりやす」として使っていたようだ。このうち、唄中心の曲が今回取
り上げる歌舞伎陰囃子の「めりやす」となり、三味線中心の曲は義太夫節や
歌舞伎竹本の「メリヤス」として発展した可能性がある。
次に、歌舞伎の「めりやす」の音楽的な特徴を挙げる。まず、曲は概して
短く、それを一ノ句・二ノ句…上ゲというようにいくつかの部分に分け、間
にセリフが入り、セリフは三味線だけの合の手(合方)でつなぐことが多い。
曲調はしんみりしたものが多く、テンポも遅く、唄に主体が置かれ、三味線
の手は比較的単純なので初心者の手ほどきに使われることもある。調子は三
下りが多いが、二上りや本調子もある。囃子は普通入らない。また、よく使
う旋律があり、特に最後の段切には「めりやす止め」を使うことが多い。
ただし、「めりやす」には江戸期だけでも二百曲以上の正本が残り、例え
ば演奏形態には、笛入り、四拍子(笛・小鼓・大鼓・太鼓)入り、上調子入り、
箏入り、胡弓入りなどもある。そこで今回は、そうした正本の中から、宝暦
時代に初演された三下りの《花の縁》と、本調子で上調子入りの《松むし》
という対照的な二曲を復曲することになった。
2《花の縁》について
初演は宝暦三年(1753)二月の中村座で、『男伊達初買曽我』第三番目に、
有名な《京鹿子娘道成寺》の前の場面で演奏されたと考えられる。初演時の
主人公の名前は正本表紙に「横笛」とあり、前年に上方から下った初代中村
富十郎が勤めた。
その後、《京鹿子娘道成寺》はたびたび再演されたが、その前には同様の
前段が出ることが多かった。この前段について、初演時の詳しい内容はわか
らないが、宝暦九年(1759)や安永八年(1779)に同じ富十郎が演
じた時の内容を水田かや乃氏の「道成寺物における地芸と所作」(『演劇学
29』、1988)によってまとめると次のようになる。「叶わぬ恋慕→恋人の
祝言による嫉妬の高まり→兄の意見と捕縛→口書き(嫉妬の極)→母による
最期→亡魂道行・道成寺」。このうち《花の縁》は障子に文字を書く口書き
に相当する場面で演奏されたと考えられる。また、横笛が恋する相手は、役
割番付に「滝口小太郎」とあることなどから、『平家物語』巻10「横笛」に、
横笛の悲恋の相手として登場する「滝口」、あるいはそのゆかりの者かもし
れない。
さらに、正本の表紙を見ると、障子には「日は暮て野には臥とも宿かるな
浅草寺の一ッ家のうち」と書いてあり、それを見つめる横笛の髪の毛が逆立っ
ている。この歌は、浅草の一つ家に住む老婆が旅人を泊めては殺して衣服を
奪うので、浅草の観世音が稚児となってこの家に泊まり、老婆の娘が添い伏
したところ娘は間違って老婆に殺された、という「一つ家伝説」を暗示して
いる。安永八年の再演時には、母が恋人を殺して金を奪おうとするので、娘
がこの歌を障子に書き、恋人に危険を知らせる、という場面があった。初演
も同様の目的で、横笛が障子に字を書いたのかもしれない。一方、一つ家の
娘の死霊が横笛に取り憑いたという可能性も考えられる(佐藤知乃氏「歌舞
伎台帳『男伊達初買曽我』とその周辺」『近世中期歌舞伎の諸相』和泉書院、
2013)。いずれにせよ、横笛の恋は成就することなく、次の《京鹿子娘
道成寺》の所作事へと続いていったようだ。
ただし、《花の縁》の正本に「めりやす」の記載はない。宝暦三年にはま
だ長唄正本に「めりやす」と記載する慣習がなかったためか。ではなぜこの
曲を今回「めりやす」として取り上げたのかと言うと、その理由は二つある。
まず、本曲初演より少し後に、「めりやす」の歌詞を集めた『免里弥寿』(宝
暦九年頃か)が出版されるが、その本の口上に、《花の縁》の歌詞の一部〽
頼みやんす拝みやんす必ず」が引かれている。《花の縁》は「めりやす」と
して認識されていたのだろう。
また、《花の縁》と同様の場面はたびたび再演されるが、そこに使った長
唄の正本《めりやす すぐな文字》(安永六年[1777]正月中村座)《め
り安 命毛》(文化十年[1813]正月中村座)《めりやす 心づくし》(文政
四年[1821]三月河原崎座)は、すべて「めりやす」と記載されている。
ただし、歌詞はそれぞれ異なっている。
次に、復曲の大きな手がかりとなる作曲者は、まず、初演のタテ三味線、
初世杵屋作十郎と推定することができる。初世作十郎は、現行曲では《三勝
道行》《吉原雀》《嫐》《虚無僧》などを作曲している。
ただし、《花の縁》の歌詞は上方唄《くれのかね》とよく似ており、《くれ
のかね》の作詞・作曲者は、『歌曲時習考』(文化二年[1805]版)に「岸
野次郎三郎」とある。岸野は元禄十二年(一六九九)から享保十二年(1727)
にかけて、京の芝居でタテ三味線を勤めていたので、岸野次郎三郎が作曲し
た可能性もある。
しかし、『歌曲時習考』に記載された作詞・作曲者の根拠はよくわかって
いない。また、歌詞の初出は《花の縁》より三十五年も後に出版された天明
八年(1788)版『琴曲新大成糸のしらべ』で、初版の寛延四年(1751)
版『糸のしらべ』には出ていない。つまり、《花の縁》の方が先に成立した
という可能性も考えられる。
岸野次郎三郎作曲とされる地歌の現行曲には、《うとふ》《里げしき》《六
だんれんぼ》《松風(古松風)》《放下僧》《きつね火》《こんくハい》《道成寺
(古道成寺)》などがあり、岸野が作曲者であれば地歌が復曲の手がかりにな
るのだが、岸野を作曲者と断定するのは難しい。ただ、初世杵屋作十郎も元
文四〜五年(一七三九〜四〇)、京の芝居で三味線方を勤めているので、こ
の曲が上方の影響を受けていることに変わりはないだろう。
また、この正本には調子の記載がなく、合の手の記載も文字譜もなく、音
楽的な手がかりがほとんどない。とは言え、《京鹿子娘道成寺》という長唄
を代表する名曲の前段に演奏された本曲の復曲を試みることは、たいへん意
義のあることと思われる。復曲の実際の方法については、復曲者による別稿
に譲る。
3《めりやす 松むし》について
宝暦十二年(1762)七月、市村座『花燕都秩父順礼』第二番目に初
演された。本曲の場面の内容は、この後の場面で演奏された義太夫節《野
分堤別鶏》の詞章が手がかりとなる。
登場人物は、忠兵衛と妻のお梅、そしてその子ども吉松の三人である。忠
兵衛はお梅の父親、雅信卿を殺しているが、お梅は敵である忠兵衛を討つこ
とができず、二人は心中を決意している。そこで、後に残される吉松を託す
ため、手紙を書く場面に本曲が演奏されたのかもしれない。結局、二人は心
中を遂げてしまう。
本曲を音楽面から見ると、「めりやす」なのに本調子でしかも上調子入り
というのはたいへん珍しい。今のところ、上調子入りの「めりやす」で確認
できるのは寛政元年(1789)正月市村座《袖の海》ぐらいである。
上調子の初出は河東節が古く、享保十六年(1731)二月市村座《爪櫛
柳の紙雛》が江戸の三味線音楽における上調子の初見とされている。この曲
は現行しないが、正本に上調子の記載がある寛保二年(1742)中村座《夜
の編笠》や宝暦十一年(1761)市村座《助六所縁江戸桜》は今も上調子
入りで演奏される。一方、長唄で上調子が確認できるのは、本曲以前だと宝
暦十一年三月市村座《お七/吉三 髪梳閨卯花》と《相のやま》があるが、
この二曲は伝承されていない。従って、「めりやす」どころか、長唄におけ
る上調子入りの先行曲自体残っていないことになる。
作曲者は初演時のタテ三味線、杵屋忠次郎と考えられ、唄の富士田吉治も
作曲に関わったかもしれない。この二人のコンビで初演された現行曲には、
《浦千鳥見女塩汲》《籬の垣衣草》《鷺娘》《うしろ面》、荻江節《分身草摺引》
などがある。また、忠次郎は《さらし三番叟》《菊慈童》などを作曲し、吉
治も《初咲法楽舞》《与作》《鞭桜宇佐幣》《夜鶴綱手車》《百夜車》《姿の鏡
関寺小町》《娘七種》《吉原雀》《嫐》《安宅松》《虚無僧》《淡島》などの作曲
に関わった可能性がある。
正本には調子・合の手・ゴマ点や文字譜も記載され、特に文字譜は復曲の
大きな手がかりになりそうだ。従って、《花の縁》とは復曲の方法も異なっ
てくるだろう。復曲の具体的な方法については、同じく復曲者による別稿に
譲る。
配川 美加
(2020年12月「今藤政太郎 復曲プロジェクト〈6〉」プログラムより転載)
復曲プロジェクトの発表も六回目となりました。
この復曲プロジェクトは、織田紘二先生、古井戸秀夫先生、配川美加先生、
オブザーバーの稀音家義丸先生(この先生方を私は「ホワイトカラーチーム」
と呼んでいます)の提言やお話を聞きながら、私、今藤政貴、松永忠一郎さ
ん、それにお囃子の田中佐幸さん、フェローとして今藤政音さん、金子泰さ
ん、古川諒太さん、これら作業チーム(私は「ブルーワーカーチーム」と称
しています)が実際の復元作業をしてきました。
これまでは発表の場は私の作品演奏会内に設け、織田先生の進行と配川先
生のレポートなどもいただきつつ、演奏を中心に、主にブルーワーカー主導
のような体で行って参りました。しかし実態としては先生方のお力による所
が大きく、大きいだけでなくそのお話はたいへん面白く、これはぜひたくさ
んの方にも、できれば舞台の上と下というように分かれない所で聴いてもら
いたいと思っておりました。
今回、六回目にして復曲プロジェクトの単独の催しを実現するに至りまし
た。
馴染みはあるものの、本当のところはよくわかってはいない「めりやす」
を取り上げることにしました。そして、たくさんある「めりやす」の中から
宝暦期のものを二つ選び、先生方にそれぞれのご専門の角度からお話をして
いただき、私たち作業チームの面々も、復曲作業の中で直面した問題などを
お話しいたしました。もちろん演奏もお聴きいただきました。
また今回は特別企画として、昨年夏に奈良女子大学の鈴木則子先生にご紹
介いただいた、長唄正本の体をとった戯作「三日転愛哀死々」に、私が「復
曲の体をとった作曲」をしたものを上演いたしました。これは安政五年のコ
レラの大流行の様子を皮肉とおかしみを交えて描いており、今のコロナ禍と
いう時宜を得たタイムリーな企画ではありますが、不幸にもコロナに罹られ
た方に対してわれわれの意図とちがった解釈をされることも危惧しつつ、思
い切って上演してみました。結果としては、悪意のある作曲ではないことを、
お客様にはご理解いただいたように思いました。
さて、これまでは先生方のご執筆は公演プログラム内に掲載しておりまし
たが、このたびより事後に冊子にまとめることにいたしました。復曲者にも
書いてもらいました。「三日転~」につきましても、鈴木先生に特別寄稿し
ていただきました。内容の解説だけでなく、背景などもお示しくださり、作
品への理解が一層深まったように思います。表紙絵や、この冊子の後ろに付
けた歌詞をご覧になりながらお読みいただけたらと思います。
巻末に付けました資料は会当日にお配りしたもので、「三日転」の歌詞の
ほか、配川先生のレジュメ、「花の縁」「松むし」の正本、翻刻歌詞を載せて
います。後ろから左開きでご覧ください。
この第六回を新たなスタートとして、改めてわれわれだけでなくお客様に
も喜んでいただくプロジェクトに育て上げて参りたいと思っております。
皆様からの痛烈なるご意見でも、応援のメッセージでも、復曲に関するご
提案でも大いに歓迎いたします。叱咤激励していただければ幸いです。
今藤 政太郎
(2020年12月「今藤政太郎 復曲プロジェクト〈6〉」プログラムより転載)