エッセイ

思いつくままに…
泣き虫日記

 また泣いた。この4月からNHKの「にっぽんの芸能」が、55分の番組から35分になってしまうそうだ。またラジオの「邦楽のひととき」の再放送枠が無くなってしまうとのこと。真偽のほどをNHKの古典芸能班に電話して確かめてみた。「本当である」と残念そうに話してくれた。
 古典芸能班はNHKの放送の価値を支えていると思っているのに、何故番組の短縮を受け入れなければならなかったのだろうかと思う一方で、自分達の文化に対する接し方を考えてみた。

 「邦楽ジャーナル」1999年5月号に「ほろび(美)」というエッセーを書いた。エッセーの概略をお話しすると――
 桜の危うさは、日本人独自の感性を持つようになった平安時代以降の美意識にぴったりのような気がする。ちょっとした天気のあやなどで人の予測をすり抜けるようにして咲いてしまったり散ってしまったりする。そのはかなさは仏教の無常観とも結びついて、日本人の感性に定着しているのかもしれない。
 世の中には、ほろびさすには余りにも惜しい美しいものが沢山ある。
 例えば判官びいきという言葉がある。美しく清いもの達が、その清さゆえに滅びてしまう。それを惜しむあまり、その言葉があるのかもしれない。
 失うにはあまりに美しく素晴らしいものが沢山あって、それらがどんなにすばらしいものであれ、やがては記録にとどまる存在となり、次なる文化にその席を譲らなければならない。
 しかしぼくは、ぼくの好きな三味線音楽の価値が、現在すでに色あせたものになっているとはとうてい思えない。……

 「平家物語」も能も歌舞伎も我々の受け継いでいる音楽も、勝者の物語ではない。それが御霊信仰に繋がっているのである。だからこそ、曲の終わりには「チラシ」といって、悪魔散らしの場面で終わるのが定例である。
 日本人は奈良の昔から弱者に思いを寄せる強い感性を持っている。それが理解されなくなるということは、邦楽が支持されなくなる、弱者をいたわる気持ちを失うということになりはしないか。日本人はいわば覇者ではなく弱者に心を寄せていた。

 このたびのロシアのウクライナ侵攻に対して多くの人が反対した。その心には日本人の心の根本的なものがあるからだ。なぜ人間が人間を殺していいことがあるのだろうか、ぼくらはもっと歴史に学ばなくてはならない。
 やや我田引水ながら、日本の芸能はその心で満たされている。それに接する時間が少しでも無くなってしまうから嘆かわしい。
 そのことも含めて、NHKには視聴率に捉われない良質な番組と文化を守ってもらいたいと思うのは、ぼくだけだろうか。
 皆さんで声を上げていただきたい。

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