エッセイ

思いつくままに…
泣き虫

 年をとると感情がコントロールしにくくなるという話をよく聞いていた。 ぼくももう85歳。喜怒哀楽のコントロールが全くできない。改めて、自分がそういう人間なのだと思い知った。

18日の夜、堅田喜三久さんの家から、亡くなったとの第一報を受けた。電話に出たぼくは、うっと息を詰まらせて、まさに慟哭した。喋ることができないで、胸から何かが落ちて行くようだった。ふと気が付くと、喜三久さんの亡くなった話が続いていた。それから何を聞いても、くやしさ悲しさが和らぐことはなかった。 なぜこんなに胸にぽっかりと穴があいたのかと思った。

喜三久さんとお兄さんの朴清さんは、戦前のある時期、うちの近所にいて、ぼくたちは毎日のように遊んでいた。それから幾星霜、やっとぼくも大きい舞踊会の立三味線を委嘱された時、その同じ会に喜三久さんもでていらした。喜三久さんはぼくと同い年だが、戦後すぐに囃子の道に入られ、あっという間に頭角を現し、ぼくの先輩のような存在になった。 舞台ではぼくに正しい進行を示唆してくれた。 それだけではない。驚くべきは「島の千歳」のこと。冒頭、三味線と小鼓で演奏をする。三味線と鼓は常にシンクロして一緒に打つのだが、理想はそうであっても一体になって演奏するのはなかなか難しい。ところが喜三久さんばかりは、後ろに目がついているようで、何度やってもずれることはなかった。守備率100%だった。いくら気の合う演奏家同士でもあり得ないことだと思う。

ぼくが喜三久さんとの心のつながりを自覚した最初は、2005年12月の、紀尾井ホールでのぼくのリサイタルであった。唄が東音宮田哲男、三味線は政太郎、小鼓が望月朴清、太鼓が堅田喜三久で「英執着獅子」を演奏した時のことだ。ご存知の方も多いと思うが、紀尾井ホールはたいへんいい響きで有名である。けれども邦楽にはライブネスが高すぎて難しいところがある。それで、朴清さんに本番前に舞台稽古をしようと言った。返って来た言葉は 「いやだよ、やらないよ」だった。 そして本番になった。 「執着獅子」は、長唄初期、宝暦年間にできたものだ。その時分は正面の山台で10丁10枚などで演奏するようなものではなく、上手の山台で3丁3枚でやるのが普通だった。時代が進むにつれ、豪華な演出が求められるようになった。人数が少なければ、演者の感情の動きとか聴衆のも含めた感興に従って細かいデリケートな動きをしても、舞台に居る者は皆それを感じ取ることができる。しかし後年のように大人数になると、細かいニュアンスは伝わりにくくなる。化政期くらいまでは、長唄は大人数で演奏せず、従って室内楽のように演奏者がゆらめきを感じながら演奏する曲に育っていったのだと思う。

前置きが長くなった。 いよいよ「執着獅子」が始まった。 前半の山場、「つゆしののめの…」と、小鼓1丁で曲に抑揚をつけながら打つところになった。「あおやぎの いとしおらしく…」そして「二人がなかへ 身をなげて あなたへ」チン ツツン となる。ここで朴清さんは裂帛の気合で間をためた。そして空を貫くような ダダダ が響いた。その間、3秒くらいだろうが、ぼくには無限の時間のように感じられた。朴清さんと政太郎の約束されたDNAのようなものが【ここしかない】ところで合一した。 一期一会の、あるべき音楽を超えた何かがお互いに感じられたに違いない。しかしこの感じを、演奏者・鑑賞者も含めて誰がこの一瞬を、完全に共有し合えたろうか?

演奏が終わって下手に入ったぼくを待っていたのは、一足先に袖に入っていた喜三久さんだった。ぼくが来るのを待ち構えていて、ぼくの肩を抱くように押さえ、「さすが兄貴だ、さすがは政太郎兄イだ」と言ってくれた。 彼も一期一会を共有してくれたのだ。

喜三久さんはこの話をいろいろな場所でしてくれたそうだ。 この一事をもっても、ぼくの内なる芸の魂を完全に共有しているのは喜三久さんだと思っている。 そんな完全な理解者を失った。 最後に。 今年の10月、「創邦21演奏会」の創作曲「オイディプス」に、喜三久さんに、ぼくの父(四世藤舎呂船)に擬して出てくれないかと頼んだ。喜三久さんは二つ返事で出てくれた。本当によい思い出になった。

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