エッセイ

思いつくままに…
「痛恨」

 先程、今日夕、畏友 杉昌郎さんの訃報を聞きました。
杉さんとは五十五年前、何と家内と結婚する一年前、友達の紹介で知り合ったのですが、逢ったその日から意気投合して、日本文化のこと、邦楽のこと、歌舞伎や舞踊のこと等を話し、気が付くと四時間が経っていました。
 その少しあと、彼は舞踊台本作家として順風満帆のスタートを切りました。
 「第一回 勘右衛門と藤の会」では、彼の作の「舟渡聟」を作曲させてもらいました。幸いなことに好評を得て、歌舞伎の本興行でも取り上げられました。僕にとって記念すべき作品となりました。
 また、長嶺ヤス子のニューヨーク公演では、「卒塔婆小町」を書き下ろしてくださり、後に僕のリサイタルでも上演しました。
 しかし杉さんとの付き合いの中で特筆すべきは、何と云っても「学校巡回」をスタートさせたことでした。忘れもしない昭和43年夏のこと、邦楽の将来のことを憂えた僕らは、どうすれば将来の展望が開けるのかと、四六時中そればかりを物に憑かれたように考えておりましたが、何か矢も楯もたまらず、当時僕が住んでいた近所の千駄ヶ谷小学校の音楽の先生、松浦先生という方を訪ね、強引に演奏会を開かせてもらいました。演目は長唄「越後獅子」と箏曲「春の海」でした。
 そして「集団日本の音」という団体を立ち上げ代表を務めプロデュースを担当してくれたのが、杉さんでした。
 以来、学校巡回は細々と続けられていましたが、やがて社団法人長唄協会の事業として正式に認可され運動を続けることが出来るようになりました。こうしたことが布石の一つとなったのでしょう、やがて義務教育に邦楽を取り入れるようになりました。その功績は長唄協会の認めるところとなり、協会から表彰されたことは、ご存じの方も多いと思います。
 その他、公私に渡って交遊は絶えることなく続きましたが、ここ数年は健康を害されお目にかかる機会も少なくなったところへこの訃報、ただただ哀悼の意を表すばかりです。
 作家としての力量、社会運動家としての力量だけでなく、何をやっても趣味が良く、絵画、骨董、染色など多方面で啓発を受けたものでした。今僕があるのも、彼の影響が大きい。僕の記憶にはずっと刻み込まれています。

合掌

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