エッセイ

邦楽ジャーナル 2000年5月号
巻頭エッセイ◇耳の正月、目の正月 2

 僕が恩師今藤長十郎先生に入門したのは昭和二十九年の暮だった。立派な広間に通されうれしさと緊張とで顔がほてっていたのを忘れることが出来ない。一通りの入門の挨拶を済ませると、先生から、いい音楽家になるには正確なリズム感と正確な音程を養い、後は一にも二にも練習、そうすれば自然に三味線は上手くなれるよ、と教えていただいた。
 以後、先生のお稽古場に終日通う毎日が続いた。先生のお稽古は素晴らしかったが、あれ程正確なリズムとおっしゃっていた先生の演奏は正確とは云えないのではないか、僕は大変不思議に思い先生の演奏に合わせてリズムを取ってみた。やはり、正確ではない。それから何日かしてから、お稽古のあと先生にラーメンを御馳走になった。その時先生は僕に向かって、桂離宮の廊下を見たか、とおたずねになった。はい、とあいまいに僕は答えた。ややあって先生は、桂離宮の廊下は先が広がっているんだよ、遠近法を逆手にとって先がせまく見えないようになっているんだよ、とおっしゃった。何も説明らしいことはなかったが、僕が疑問に思った正確なリズムということへの答えがその言葉だったように思う。つまり物理的な事実と芸術的な真実とは違うということを教えて下さったのだ。この言葉は僕にとって耳の正月を超えて感性の正月を下さった、いつまでも忘れ難い言葉だった。
◇邦楽ジャーナル掲載 http://www.hogaku.com