エッセイ

邦楽と舞踊 2006年1月号掲載
特集:米川敏子◇現代によみがえる敏子先生

このたび米川敏子先生の芸、お人柄そして僕とのご縁を書かせていただきましたが、書き終えた翌朝に悲しい訃報に接し、茫然自失でした。しかし、人間の命に永遠ということはないのだと改めて思わなければならないのです。
 話は変わりますが、僕が父を亡くしたのは昭和五十二年のことでした。やはり筆舌につくしがたい悲しみに打ちしおれておりましたが、菩提寺の住職さんが僕に話しかけてくれました。「呂船さんは亡くなりはったけど、呂船さんは政太郎さんの血の中にも心の中にもちゃんと生きてはりますのやで」と……。DNAとはまさにこのようなことだと思います。もちろん、僕は父のクローンではありませんので、違うところはいっぱいあります。が、やはり、DNAを受け継いでいるのだと自覚することがしばしばです。敏子先生と裕枝さんもやはり母子、実は今日(二〇〇五年十二月十八日)僕のリサイタルで僕の作曲の『四季』という曲の中の「秋」という部分を篠笛と筝の二重奏で弾いていただきました。実に絶妙なこれ以上ない寄り添い方、名演奏でした。やはり裕枝さんは敏子先生のDNAを受け継いでおられるのだということを強く感じました。しかし、と言って敏子先生と裕枝さんは同じではありません。当然のことながら、年齢も生きている時代も違い、音楽的な環境も違います。しかし僕には、それだけではなく音楽家としてのテイストといったようなものが、微妙に違うなあと思います。僕の表現が適当かどうかは分かりませんが、敏子先生の音楽は例えて言うと、淡い桜の色にミルクを流したグラデーションとでもいう風合いがあり、少しウォームな感じというかアナログ的とでもいうのでしょうか、そんな風に感じます。対して裕枝さんの音楽は、色で言うなら薄いコバルトブルーとでも言うのでしょうか、少しクリスタルでクールな感じがあります。やはり、時代の子、デジタルなものを感じさせます。僕は聴いていて素敵だと思いますが、僕にはなかなか真似できない芸だなと思います。
 話は戻りますが、裕枝さんとお目にかかったのは彼女がまだ子供のとき、敏子先生にちょこちょことついて来ていたときの頃からです。あっという間に「あれ、お筝を弾くんだな」と思う間もなく、すぐに一流の演奏家、作曲家に成長していました。活動の場も広く、どんなに多忙な中であっても何でもきちんとこなします。演奏、作曲ばかりでなく、人の曲に筝の手をのせる、いわゆる手付という仕事も非常にたけていらして、裕枝さんにお願いすれば何でも安心、という感じを抱かせます。間違いなく、超一流の道を歩んでゆかれることでしょう。裕枝さんは豊かな音楽的感性に加えて、明晰な頭脳ときちんとした論理的な能力も兼ね備えています。僕とは敏子先生の時代からのお付き合いで、今では「創邦21」という団体で同人としても共に活動し、運営の中枢を担って会をリードしていらっしゃいます。また、現代邦楽作曲家連盟でも、一緒に仕事をさせてもらっています。これからもよりよきパートナーとしてまた、かけがえのない友人としてのお付き合いが深くなることと思います。敏子先生は亡くなりましたが、これをばねに、なおいっそうの飛躍を信じています、裕枝さん。